穀雨とめぐみ

4月24日土曜日。2020年は散々であった。そして今も、である。

芸術鑑賞は自らの意志で、しかしその世界に入ったなら黙って身を委ねる能動的かつ受動的な相反する動作であると考察。控えなければならない、しかしソトと繋がっていたい。そういう想いを抱いている者が存外多く、彼等には今こそ芸術鑑賞をと薦める。

逆に彼等から薦められやったものもある。流石私を知る者からの薦めだけありどれも興味を惹いた。そして困ったことも起きた。ある人から送られた米だ。

収穫は非常に少ないが、米粒の形もよく、見たところもきれいな米であった。ただし、あまりうますぎて、副食物がご馳走の目的の場合には使えない。うますぎるというと変に聞こえるかも知れないが、元来米というものはうまいものである。うまいものの極致は米なのである。うまいからこそ毎日食べていられるわけなのである。特にうまい米は、もうそれだけで充分で、ほかになにもいらなくなってしまう。

かの北大路魯山人もそう記しており、送られた米を食べてからは下手な米が出ると食い気が下がるようになった。私は料理人ではないが、北大路魯山人の次の一節から我が身を振り返る。

料理人は飯なんてものは、無意識のうちに料理ではないと考えているらしい。ところが、飯は料理のいちばん大切なものなのである。料理ではないと思うところに根本的に間違いがあり、まずい飯ができるのである。洋食でパンの良否を問題にしたり、焼き方を問題にしたりするのとまったく同じなのである。だから、飯は料理ではないという考えを改め、立派な料理だと考えなければならない。

さて、年間スケジュールは今も狂ったまま。いい加減この状況に辟易している。