救済の音色

3月21日月曜日。

先日、とある施設に招かれての演奏会。一口に「演奏会」と言っても、コンサートホールに観客を招くこともあれば、我々が各所に出向いて行うチャリティーコンサートもある。閉塞感のある時代が訪れて幾星霜、音楽の力に救いを求める人も多いようである。
ただ、私如きの演奏が聴衆に影響を与えられているのかは、いささか疑問である。過去の誰かが書いた譜面を身体に覚えさせ、それを聴衆の前で披露するだけ。私が音楽に力を込めているつもりは全くないのだ。
そんな私の内面などつゆ知らず、沸き起こる拍手喝采。感動の涙を流す観客もいる。豊かな感受性と想像力があれば、音楽は無限に力を与えてくれるのかもしれない。

そんな思いを巡らせながら朝食後のコーヒーを嗜む休日の今日。
テレビを見てもラジオを聞いても流れる同じニュース。海の向こうでは国同士の対立が深まっている。侵攻が始まってから早1カ月ほどが経つようだ。
対話の決着を暴力に任せるのは弱い人間のすることではなかったか。この”平和の国”に生まれ、なおかつ学生時代から音楽に没頭し、暴力とは無縁な環境で育った私だからそう思うのであろうか。隣国が始めた勝手な戦いに平穏な生活を奪われた人々は一体どこにその怒りをぶつければよいのか。

遠い国に思いを馳せながら、私は無意識にヴィオラに手を伸ばしていた。
次の演奏会の譜面をなぞり、ただひたすらに音色に耳を傾ける。
私も音楽に救われる1人なのかもしれない。